丸谷秀人のブログ

エロゲシナリオライター丸谷秀人の棲息地。お仕事募集中

ウィンウィン

 人生、あまりに本が増えて増えて、気がつけば、本棚からも押し入れからも溢れた本が崩れるのにおびえながらその谷間で寝ている時がある。

 旅立ちの季節がやってきたのだ。

 

 だがこの旅立ちが難しい。

 別れがたい本は多く、間違って手に取って読み返しでもすれば、胸いっぱいに思い出が蘇り、ときめきまくり、私と本は旧交をあたためあい、お互い別れが惜しくなり、しっかりと手を取り合い、旅立ちをやめてしまうのだ。

 

 ああ、もっともっと広い収納スペースが欲しい!

 

 だが、そんな時、まっさきに旅だってくれるナイスな奴らがいる。

 推理小説だ。

 彼らの大部分は後も振り返らず、玄関で出航の時を待つダンボールの中へと乗り込んでいく。送るこちらも、引き留める気は全く起きない。

 お互いなんの未練もなく、さっぱりとしたものだ。

 

 なんでだろう?

 読み終わった推理小説はネタが判ってしまった手品みたいなものだからだろうか?

 

 というわけで旅立ちの季節には、推理小説に感謝。

 彼らは私を安全にしてくれるし、私は彼らに彼らが好きな人と出会うチャンスを提供出来るわけだ。ウィンウィンである。

 

 だけど問題は、私の周りに集まった本の中で、推理小説はほんの僅かな割合しかないってことだ。彼らが旅だった後には、お互いときめいてしまい送り出すことも旅立つことも出来ない私と大量の本が残されている。

 

 そして恐怖の夜が来る。

 私は地震で愛しい本達がなだれ落ちて来て圧死する未来に怯えながら寝るのだ。

 

 まぁ寝れば忘れちゃうんだけどね。

 

 

 

映画館こわい

 映画館はこわい。いつもこわい。

 この前もそうだった。
 予約した席につくと、目についてしまった大きな荷物。少しくたびれた感じ

の若い男が脚の間に挟んでいる。

 

 映画館は大きな荷物なんか持ってくる場所じゃない。

 

 そんなのちょっと考えてみれば判る。映画の世界にどっぷり浸かって目も頭

も心地よく疲れ切った後で、一体なにが出来るって言うんだろう? 私なら何

も出来ない。せいぜい帰りがけにコンビニでも寄るくらいだ。コンビニに行く

だけのためにデカイ荷物なんていらない。わけがわからない。

 なのになぜか大きな荷物があるんだ? 今回は大きな旅行カバンだったが、

リュックだったり、紙袋だったり、風呂敷包みのことなんかもある。誰もいな

い席にポツンと置いてあることもある。ありえない。

 暗くなり始めた館内で青年の表情は見えないが、想像はつく。緊張している

か恍惚としているか、恐怖に震えているか、邪悪な笑みを浮かべているに決ま

っているのだ。

 

 ヤツは自爆するつもりなのだから。

 

 あの大きな荷物の中には強力な爆弾が入っているのだ。時限式か、それとも
スイッチか、遠隔操作でボンか。そうでなければあんな大きな荷物を持ち込む
はずがない。なんの主義か信仰かはたまた家族でも人質に取られているかは知
らないが今すぐやめて欲しい。

 

 いや待て。

 

 この世には私ごときでは想像がつかない動機というのを持った人間がいる。
映画館の中で最初の上映からずっとピザを食べ続け、その日の最終上映が終わ
った時に苦悶の表情を浮かべ死んでいた男や、壁に拳銃をくくりつけてその引
き金にお手製の特殊な仕掛けをつけて、自分の身体に何発の弾を撃ち込んで死
ねるかに挑んだ男や、家族の夢の中に出てきたら山の中に暗号を書いた手紙を
隠した場所を教えるので探しに行って欲しいと言う奇っ怪な言葉を残して飛び
降りた少年などがいる。彼もまたそういうのの1人で、大きな荷物もその奇怪
な意志のなせるわざかもしれないではないか。

 

 例えば……三日前、朝起きたら、『そうだ自爆しよう!』と思いついてしま
ったのかも。

 

 私はわきあがってくる恐怖から必死に考えをそらそうとする。大丈夫、自爆
するならもうちょっと違う場所でするはずだ。広場とか官庁街とか。いやいや、
テロリストにとっては、それなりの人数を巻き込んで死ねばそれで目的を達す
るのだから、人がある程度いればどこだっていいのだ。

 

 つまり映画館でもオッケー。オワッタ!

 

 それにだ。人生の最後に映画を見てから死にたいとかかもしれない。だとす
ると、エンディングまでは爆発しないはずだ。その間に気が変わってくれない
だろうか。だが、爆弾まで作っておいて今更やめてくれるだろうか? 爆発物
の原料を集めている段階で、公安辺りに目をつけられているかもしれない。今
だって爆発物の原料のルートから、逮捕の手が彼に迫っているかもしれない。
この瞬間にも、扉が開いたら公安がなだれ込んできて、彼の身柄をとりおさえ
ようとした瞬間大爆発を起こして、当然、私も巻き込まれて……。

 

 ああ死にたくない死にたくない。

 

 大した人生でもなく、これからも大した人生でもないだろうに、こういう時
強烈に死にたくないと思ってしまう。まぁ死ねばまだいい、半身不随にでもな
ったら最悪だ。私は少しでも怪我を軽くするために必死に考える。ヤツは私の
左側3個離れた席に座っているから左半身は重傷を負うだろう。隣とその隣に
は客がいるから彼らが肉の壁になって上半身は大丈夫かもしれない。席に深く
身を沈めてみると、今度は脚が気になる。ヤツのカバンは足もとにあり、そこ
と私の脚の間には何も無い。爆風や熱風、カバンの破片の襲撃をさまたげるも
のは何もない。下半身がズタズタになって血の海でのたうち回り出血多量で

死ぬのか……なんとかしなければ。だけど席の上で正座するわけにもいかない、

後ろの席の客の迷惑になる。

 

 どうすればいいんだ。出来れば五体満足で帰りたい!

 

 帰ればいいじゃないか。とおっしゃる方もいるだろう。そんなに怖いなら、
今すぐ映画館を出て帰ればと。だが出来ない。なぜなら私の常識というヤツが

『この国でテロだの爆発だの起こるとしても、ここで起きる確率は低いでしょ?

落ち着け』とわめきたてるのだ。『大きな荷物だって、映画見たあと里帰りで

もするのかもしれないし、職場に行くかもしれないし、少なくともテロよりそ

っちの可能性の方が高いだろうが!』と。判る。君の言ってる事はよくわかる。

なんせ君は私だし。私も理屈では判っている。だから何事もないフリをして席

に座り続けて映画の始まりを待っているわけだ。

 

 でも、万一、ひょっとしたら?

 

 一番恐ろしいのは、持ち主がいないで大きな荷物だけある場合で、私の内部
的には爆発物である可能性が3倍ましになる。時限式か遠隔式だということだ。
だからと言って、荷物の持ち主が帰ってくるとホッするかと言えば、遠隔式が
スイッチ式に変わっただけで恐怖は持続する。
 今回は持ち主は席も立たずパンフレットを読んでいるから、少なくとも映画
を最後まで見る気はあるのかもしれないが、自爆する前に、どんな映画かくら
いは知っておこうと思っているだけなのかもしれない。それとも、パンフレッ
トの文字など頭に入っていなくて、ただ読んでいるフリをしているだけなのか
も。いやあれはパンフレットに偽装した彼の組織なり団体なりのバイブル的な
もので爆発前に自分の正義を確認しているだけなのかも、実は映画とかの娯楽
は堕落への道だから抹殺せよとかの主義で、『こんなけしからん映画もこんな
けしからん映画を見ている奴らも抹殺しなくちゃな!』と自らの正義に恍惚と
しているのかも。

 

 君らの正義は勝手だけど私を巻き込むな! 巻き込まないでください。

 

 予告編が始まって、更に館内が暗くなると、荷物が見えなくなったせいか、
恐怖は薄れてゆき。結局、エンドマークが出るまで思い出すことはなかった。
まぁ平常運転である。明るくなった館内で改めて荷物とその持ち主を見ると映
画を見終わって満足そうである。良かったね。なにをあんなに怖がっていたの
か自分でも判らなくなっているのだった。

 

 やれやれ。今回も命がつながった。

 

 実はこの恐怖。全く役に立たないわけじゃない。
 これは個人的に映画をどれくらい気に入ったかの尺度にもなっていて、爆発
物を忘れてしまうのは料金以上に楽しませてくれた映画。エンドロールくらい
で思い出すのは料金に相応しい価値はある映画。上映中、たまに思い出してし
まうのは、損した映画。そして、最初から最後まで恐怖にさいなまれていた映
画は金を返して欲しい映画である。幸いなことに、最後のジャンルの映画は今

まで1本しかない。
 映画の内容より、座席の上にひっそりと置かれていた茶色い旅行カバンの色
や形、その表面が映画の中の光景を反射して七色に光っていたこと。そればか
りを覚えている。2時間ただただ恐怖。あれを上回るホラー映画なんて見たこ
とない。今でもたまに夢に出て来る。とにかく怖い。怖かった。あのカバンど
うなったんでしょうねぇ……。

 

 

 とりあえず私は生きてるし。よかったよかった。

 

徳川家康だけど女体化してみた


 『家康が肥満した身体に似合わない身軽さで馬に乗り、自分の運命を知っているかげろうのような頼りなさで去って行くのを見た』

 なんでかわいい女の子になってないんだよ。エロゲーとかラノベで戦国ものっていったら、松永弾正なんか妖艶な美女だし、織田信長は美少女になるのがあたりまえでしょう! なんで徳川家康は美女にも美少女にも男の娘にもならんのかなぁ。

 いきなりなんだとお思いでしょうが、『ガールズブックメイカー』の設定とプロットを読んで頭に浮かんだのがこの光景。なんでやねん、と思わずツッコミ。

 

 ちなみに『ガールズブックメイカー』というのは、私がシナリオのごく一部を担当させていただいたエロゲーで、古今東西歴史上に書かれたありとあらゆる本を管理する大図書館を舞台にしたお話し。本の中にはそれぞれ独立した世界があって、んで、本の登場人物達は読者を楽しませるべく同じお芝居を続けるわけですが、『山月記』の虎だって「こんな生活はやめだ! オレは妻子とささやかな幸せを手に入れるんだ! 」と一大決心して虎にならなかったり、『舞姫』のヤルだけやって日本に逃げ帰った最低男も「オレはこの子と結婚するんだ!」と日本に帰ってこないで現地で結婚したり彼女と一緒に帰ってきて結婚しちゃったりするわけです。はたまた『ロミオとジュリエット』だって、いつかは相手に飽きてしまうかもしれない。倦怠期のロミオとジュリエット。現実ってキビシー。
 だけどそうすると本の世界が壊れちゃうわけですよ。
 そんな時に活躍するのが主人公達。彼らは、妻子と幸せな時間を過ごしている男の枕元に現れて「お前には才能がある。こんなところでくすぶってる人間じゃない」と囁き、もう一度夢を再燃させて虎にしたり、彼女と一緒に帰ろうと決心した青年の耳元で「青い目の女の子を連れ帰っても、結婚なんて親が世間が認めてくれないぞ。ヘタレのお前には戦えない。ムリするな」と囁き、やっぱりヘタレにしたりするわけです。お互いに顔も見るのもイヤになったカップルには、MIBみたいに記憶を消す処置をして新鮮さを取り戻させてあげるとか。
 まぁそんなろくでもない悪魔だのエージェントみたいな手は使いませんが。
 ちなみに悪魔ならメフィストっていう色っぽい姉ちゃんが出てきますし。もちろんえっちぃシーンもありますよ。

 

 さて徳川家康ですが、そういうシーンで終わった小説があったんですよ。しかも<○○
編へ続く>とか続編の題名まで書いてあったのに、20年が経った現在でも続編でてないヤツが。ああ読みたい。続きが続きが!
 とりあえずもう一回そこまで読むか……となったんだけど、部屋のどこにあるのかが判らない。しょうがないんで買い直して読んだら、やっぱりそこでおしまい。久しぶりで読んだんだから、ちょっとくらいサービスしてくれてもいいのに。
 人気がなくて打ち切りなら諦めも突くんだけど、これって別々のレーベルから同じ内容で3回も出版されてるんで人気がなかったってことはないと思うんですよ。
 3回も出てるんだから1回くらい完結して下さいよ! 続きを書いて下さいお願いします、と作者様に懇願したいところなんですが、本人がこの世界からいい日旅立ちしたんでどうしようもない。
 閻魔様相手にも「俺を地獄に堕とさなかったら、閻魔様にだけ『皇国の守護○』とか『地○連邦の興亡』とか『レッドサンブラックク○ス』の続きを読ませてさしあげますよ」とか囁いて、たまーに続きを書いたり新シリーズを書いたりして、いつまでも地獄に落とされず好き放題やってそうだけど。

 設定読んだ時『未完の作品ってどうなるんだろう?』って思って、ポン、とさっきの光景が浮かんじゃったわけですよ。

 『ガールズブックメイカー』の世界では、徳川家康は何万回と馬に乗って、その先はなくて。飽きても飽きても、また乗り続けるんでしょうか? まぁ、徳川家康的には、伏線的な描写からして、このあとすぐ死んじゃうんでしょうから続きがなくていいのかもしれませんが。
 それに、徳川家康、『ガールズブックメイカー』の中では、多分かわいい女の子になってる。そしてエロシーンもある。実在の家康は肥満体だったんで、きっとお尻の大きな女の子。ほっそりしたら家康って感じがしない。
 乗る度にかわいらしいイチゴパンツが見えて家臣達がちょっとハッピーになる。100回に1回くらい落馬してお尻打って「うー、いたいー」とかわいらしくうめくんで、周りの三河武士達はその度に「御主君モエ!」とか士気アップ!
 んで、お尻が大きいってことは顔騎か! 結構主人公マニアックだな。

 エロくて良い子のみんななら知ってるとは思うけど、念の為に説明しておく。顔騎とは、顔を女の子にまたがってもらって、くんかくんかしたりぺろぺろしたりチュウチュウしたり堪能するプレイらしいぞ。

 でもね、私としては徳川家康がかわいい女の子って想像できない。美女すらムリ。ヤツはタヌキがいいところ。しかも妖怪のたぐい。その上、平成狸○戦に出てきたのよりかわいくない。なぜって徳川家康だから。松平元康の時は美少女だけど、家康になった途端タヌキというパターンもアリかも。誰得? この世界だとタヌキといたすハメになるのか。
 しかも顔騎。マニアックすぎる! 松平元康でいいや。
 あーでも、元康の時も苦労はしてるからなぁ、かわいく見えて恨みはいつまでも忘れない粘着質で腹黒かもしれん。恨み日記とかつけてそうだし。『今川義元の野郎に上から目線で嫁を押しつけられた。いつかコロス(はーと)』とか。『サルに頭を下げさせられた。いつかコロス。いつかヤツにガキが出来たらそれもコロス(はーと)』などなど。

 

 って……結構いいかもこういうキャラ。

 

 現実ならイヤだし、遠慮するし近づいてきて欲しくないし、側にもいてほしくないけど、二次元でエロゲならこういうキャラも萌える。徳川家康ルートに入ってもやっていけそう。

 やっぱり二次元は素晴らしい! タヌキじゃなければね。

 

事実の腕力

 ある国の皇帝が首都の街頭でテロリストに襲われたのだが、間一髪九死に一生を得た。せっかく命を拾ったんだから真っ直ぐに宮殿に帰って籠もっちゃえばいいのに、なぜか帰る前に公園に寄って、その場にいた別のテロリストに暗殺されてしまった。

 実は皇帝のお付きがテロリストの一味で、最初の襲撃に失敗したら次の襲撃場所へ誘導する手はずになっていたのだった……とかだったら納得なのだが、違う。

 そのテロリストが第六感で皇帝の来訪を察知していて待ち伏せしていた、でもない。

 皇帝はたまたま公園に寄り、そこに襲撃し損ねてくやしがっていたテロリストがいた……というなんともわけがわからない展開である。

 

 某独裁国家の高官が、支配を任されていた属国の首都で暗殺された。彼はその時オープンカーに乗っていた上に、運転手兼護衛の1名しか側にいなかった。しかも暗殺者の機関銃は故障し、手投げ弾は爆発はしたが致命傷を負わせるのには失敗、高官は病院にかつぎこまれ一時は回復するかと思われたのだが、爆発で損傷した車のシートから飛び散った詰め物の馬の毛が傷口に入って、そこから敗血症になって死んだ。結局彼は暗殺者でなく馬の毛に殺されたのだ。

 なぜオープンカー? なぜ護衛が1人? しかも機関銃が故障? とどめに馬の毛。

 なんというか……暗殺というシリアスな事態なのに、コントみたいである。

 

 どちらも小説やフィクションなら、御都合主義もいい加減にしろと怒られる展開だが、事実だからしょうがないよね。かくのごとく事実という奴の腕力はすごい。

 どんな不条理も人間に無理矢理飲み込ませようとするのだ。

 

 だが人間も負けてはいない。簡単にはやられはせんのだ。

 想像力を駆使してありもしない陰謀や黒幕をでっちあげ神様や神話大系まで作りだし、わけがわからない現実に対して果敢に立ち向かうのだ。

 それらはムダなあがきというわけじゃない。

 昔は太陽や月や星がなぜ空を動くのか、なぜ夜が来て朝が来るのか、地球はどんな形をしているのか、なぜ火山は噴火して地震は起きるのか、全てがわけがわからなかったのに、なんとか格好つく説明がつくようになった。

 文明の発展っていうのは、わけのわからない現実に対する人間の涙ぐましい努力の結果なのかもしれなかったりする。

 

 だけど全部錯覚だったりしてね。

 

くさくないよ。

 なんでウンコは臭いのだろう。

 いきなりバカだと思うでしょうが、不思議なものは不思議なのでしょうがない。

 進化論によればその環境に生き残り易いように動物は変わっていく。変わった動物は変わらなかった動物より多くの子孫を残す。そして子孫が生き残る率の僅かな差がつもりつもってその動物が数を増やし変わらなかった奴らを圧倒していく。すなわちこれが進化である。ある種類の鳥がいるとして、ちょっとした突然変異により周りより僅かに目が良くなれば、周りの奴らよりエサを見つけるのも天敵を見つけるのも早くなり生き残る確率が高まり、子孫を作る可能性も高まり、少しでも多く子孫を作れば、子孫が残る確率も高まるのだ。

 進化したほうが進化していないより優れているわけではない。生き残る率が高いだけだ。アフリカでは赤血球の能力が先天的に低い人が多いという。これは能力の低い形状をもつ赤血球を保持していると風土病にかかりにくいからで、運動能力等にはマイナスにしかならない。生き残り易いということが全てなのだ。

 なぜそれが冒頭の疑問につながるかと言えば、動物はみんなウンコの処理に苦労しているからである。ウンコは大抵臭い。どんな動物でも臭い。排泄物一般が臭い。どの動物も身を守るためにウンコを隠したり埋めたり特定の場所でしかしないようにする。そうすることでニオイの痕跡から自分が見つからないように務めているわけだ。

 とするならば、

 少しでもウンコが臭くない個体は、普通にウンコが臭い個体より生き残る確率が高いのではないだろうか? とすればウンコが少し臭くない個体が増え、それが種族全体になった時、その中から更に臭くない個体が優位になり子孫を多く残し……ということを何十万年と続けていたら、ついには無臭のウンコをする個体のみの種族が出現するのではないだろうか?

 だが現にウンコは臭い。うちのベランダに侵入してきた野良猫のウンコは臭かった! ちりとりで始末したらちりとりも臭くなった! 洗いながら頭に浮かぶ、なぜだ? 何万年も時間はあったのだからウンコが臭くない種族が世界を埋め尽くしているはずではないだろうか。これは進化の怠惰ということなのではないか。猫よもっと進化せい!

 いや待て、猫ばかり責めても仕方がない、そもそもこの人間も含めてウンコが臭くない種族というのは存在するのだろうか? ウンコの中にいい香りのするコーヒー豆が混ざっている動物がいるというが、それはたまたまそのコーヒー豆を食べるからにすぎない、別にウンコに芳香を混ぜようとしているわけではないし、そもそもいい香りだろうが悪臭だろうが、周りにニオイを放出していることには変わりない。草食動物は肉食動物よりウンコが臭くないというが、臭いことには変わりない、ストレスがたまらなければ臭くないという話もあったけど無臭になるというわけではないらしい。究極にストレスがなくなれば臭くなるなるのか? そうだとすると悟った行者とか聖人とかのウンコは臭くないのだろうか。臭いウンコをする行者や聖人は悟りを開いていないうそつきなのだろうか。トイレで見分けがつくのか。いや嗅ぎ分けか。

 真の聖人や行者が臭くないとしても、スーパーやホームセンターへ行けば芳香剤や脱臭剤を山ほど売っているから臭い人のほうが圧倒的な多数派なのだろう。もしそうでなければウンコが臭い人は迫害され、大虐殺とかされているだろう。みんな臭いからこの程度で済んでいるのかも知れない。臭くてよかった。

 

 なぜウンコは臭いのか? 臭くならないように進化していないのか?

 臭くても臭くなくても生き残る率が変わらないのだろうか?

 肉食動物は概して臭覚が発達しているから、ほんの少し臭いが薄れた程度では生き残る率に変わりがないのかもしれない。なるほど、思いつきにしてはそれなりに理屈が通っている気がする。が通っているだけにつまらない。

 臭いを消すような進化は起こりにくいのだろうか? まだその偶然が起こっていないだけなのでは?

 だが時間ならウン億年はあった。生物には時間がたっぷりあったのだから、なにやらよく判らない共生細菌だのを腸に繁殖させたりして無臭化する時間はたっぷりあったんじゃあなかろうか。

 実はもう進化の真っ最中なのではないか? 絶賛進化中。

 確かに、今の人間も含めた動物どものウンコは臭い、ついでにオシッコも。だが昔はもっと臭かったかもしれないではないか! 化石に悪臭は残らない、恐竜の骨を掘り出したら骨や地層の隙間にたまった悪臭が噴き出して来た、なんて話しは聞いたことがない。臭いも鳴き声も化石には残らない。

 進化というやつは勤勉である。それでもウンコは臭いままだ。だがそれでも進化しているとすれば、昔の地球は悪臭ですごかったのだ! 恐竜とかもう物凄い臭い! 今の人間がタイムマシンで恐竜の時代へ行ったら、マシンから降りた瞬間、悪臭で死ぬほど臭かったに違いない。化石に残っていたら発掘隊が瞬時に全滅するほど臭かったのだ。

 それから億年の時をかけて、人が瞬時に卒倒しない程度に臭くなくなったのだ!

 とすれば、今から何十億年後。太陽が膨張し地球の表面が焼けただれる寸前。最後に残った究極の生物は……なんのにおいもしない奴らに違いないのだ。

 

 そういえばシンゴジラで、誰もゴジラのにおいの話をしていなかった。

 究極の生物は臭わないからか。なるほど。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

川の名前なんて知らない

 橋の欄干から川の流れを見る。

 いつもコンクリートの川底が丸見えの浅い川で、側面もコンクリートで固められているので風情もなにもない。両岸にも並木なんてこじゃれたものはなく、薄暗い灰色の建物の壁面がずらっと並んでいるだけだ。遊んでいる子供もいないし、夜に蛍が飛ぶこともない。川底が平で水が淡々と流れているせいかボウフラが湧いている様子もない。水のにおいしかしない。人をひきつける要素が皆無という川だ。実際、長年近くに住んでいるけど、この川の名前をいまだに知らない、というか、知らないことにすら気付いていなかった。

 死体が流れていても誰も気付かないだろう。なんせこんな川をじっくり見ている人間なんていやしないからだ。慢性ネタ不足で途方にくれているライター以外は。まさにわたしのような人間だけが見る可能性があるわけだが、そもそもこの川に死体を流すこと自体が結構難易度高い。放り込んだらすぐ底にぶつかるし、そもそも流れるほどの深さもない。

 

 なんと面白くないやつなんだろう。これが川である意味があるんだろうか。

 なんと面白くないやつなんだろう。こいつライターである意味があるんだろうか。

 

 こうやって昼間からぼぉっと川を眺めていたら、自殺でもしようとしているんじゃないかと誰かが止めてくれたりしないだろうか。ネタになるし。そうしたらわたしは、言葉はいらない金をくれと言ってしまうかもしれない。

 その時、無言のまま札束を渡されて立ち去られるのと、無言のまま川に突き落とされるののどちらがこわいだろう。どちらにしろネタにはなるけれど。

 もちろん自殺なんてする気はない。痛そうだし。この川は浅すぎて身を投げ出したら川底で全身打撲となるだろう。痛そうだ、とか言っている時点で、死ぬ心配はないというものだ。そんなことを意識しているヤツはそもそも身投げなどしない……か、どうかは判らない。痛いだろうな痛いだろうなでも生きていくよりはマシという人もいるかもしれない。

 話しかけてきたのが警官だったらどうか。そもそもどう話しかけてくるんだろう。

「死ぬな!」 いやまさか。いきなりすぎるだろういくらなんでも。

「生きろ!」 いやいやまさか。これまたいきなりすぎるだろういくらなんでも。

「署まで来てもらおうか」 いやいやいやいや。

「どうかしましたか?」 くらいが穏当なところか。おもしろくないけど。

「気持ちはわかります」 いきなりこんなこと言われたらいやだなぁ。

 お前になにが判ると言うんだ。

「わかります。売れないって辛いですよね」

 ちょっと待て、どうして売れないって判るんだよ。

「いかにも売れなそうな顔をしてますから」

 貧相な顔をしているのは認めるが……確かに売れなそうな顔だ。いろいろな意味で。

「背中を押してあげましょうか? いちにのさんっ!」

 って、いきなりなにをする!? うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 

 もちろんそんな面白い警官がその辺にいるわけもなく、ただ川を見つめ続けるしかなかった。誰も話しかけてこないし、こちらから話しかける相手もいない。そのうち川の一部になった気分に一瞬なったが、どこに流れてもいけなかった。高校野球やオリンピックがどんどんと流れて行ったが、わたしは川を眺めているだけだった。このままぼぉっとしていたら欄干の一部になれないかなぁ、などと思ったが、もちろんそんな兆候はなく、やっぱり川を眺めていた。

 

 人間ってひとりだよね。

にっぽんのいちばん長いものにはナチュラルに巻かれたいよね

 さりげなく消えていくひとたちというのがいる。

 みんなと一緒に声をあげ正義や論理に興奮していたはずなのに、旗色が悪くなると、すっと消えるひとたちである。

 卑怯者なのだろうか? わたしはそうでないと考えている。

 卑怯者というのは言い訳をする。うそぶく。心のどこかに罪悪感を自覚している。

 あの裏切り者で名高いヨセフ・フーシェですら、『わたしの党派は常に多数派である』という言葉を残してしまっている。そして自分が処刑に荷担したルイ16世の残像を消すためにルイ王朝の復活に手を貸し、自らの破滅をまねいてしまったのだ。

 でも、このすっと消える人達は、なんのセリフも発しない。

 なぜなら彼らは、ごくごく自然に立ち去り、なにごともなかったような顔をして次の列に並んでいるからである。

 最近TVでも放映した『日本のいちばん長い日』という映画は、そういう人達が主人公の映画であるとわたしは思っている。ちなみにこの映画は2本あって、1967年に公開された岡本喜八監督版と2015年に公開された原田眞人監督版があり、わたしが主に語ろうとしているのは2015年版である。

 

 さて、さりげなく消える人びとをどのように映画に現すか。なんせ彼らは静かに消えるのでなんの主張もせずことさらな演技もしない。画面に残って演じ続けるのは消えられなかった人達だけである。

 ではこの映画でどのようにそれが現されたかといえば、ほんとうに消えることで現されているのである。

 それは陸軍省の階段1階である。最初の方では、徹底抗戦を叫ぶ若手将校達が立錐の余地もないくらいに並んでいるシーンが出てくるが、中盤を過ぎ、敗戦を受け入れざるを得ない足音が誰の耳にも響いてくるころには、1人の男しかいないシーンが映る。

 しかもそこに敵国の流行歌が流れるのだ。昨日まで唾棄すべきもの、空気中に振動が流れるのさえ許されていなかったものが堂々と。だめ押しである。

 あるいは、参謀本部である。

 最初の方のシーンでは、志を同じくしている若手参謀達がさかんに議論をし、また笑いあいさえして、同じ志をもつ仲間内の気易さ心地よさ一体感を示しているのに、これもまた終盤には数人しか映っていないシーンが出てくる。

 そしてまた陸軍の地下壕らしき場所。

 ここも中盤には人で埋め尽くされ、徹底抗戦を怒号する将校で充ち満ちているが、終盤には将校が1人飲んだくれている光景が映るばかりである。

 また別のシーンを使った対比ではなく、かなり露骨にそれが語られているシーンもある。陸軍の施設の裏手にあると推測される場所で、機密書類を焼いているシーンだ。そこには複数の人影が映っているが、セリフをしゃべるのはひとりだけである。セリフをしゃべっている以上、この登場人物はセリフを発せず消える人びととは別人種である。そして周囲は、彼のセリフを路傍の石のごとく黙殺し、作業を続けるか立ち去るのである。 

 彼らは見事なまでにセリフをしゃべらない。静かに消えていく。ただ消えていくことで、その圧倒的な不在をもって、彼らこそが主役であると告げるのである。

 ではセリフを喋る人びとはなんなのか。取り残される彼らは一見ドラマを動かす主役達にみえる。だが、彼らは単に逃げられなかった人達なのである。彼らは責任やかくあれという思考に縛られ、あるいは観念に自己を一体化することで理想に近づこうとしすぎたゆえ華麗に逃走することができない。また消え去るひとびとのように罪悪感なく立ち去ることなど出来ようはずがない。

 彼らは愛するべき不器用すぎる人びとにみえてくる。

 わたしは映画を観ていて、彼らがいとしくいとしくてならなかった。

 彼らは閃光のように画面を駆け抜けて散っていくのだ。

 畑中少佐を演じる松坂桃季が始めて登場した時にみせるういういしい笑顔と、自決する時の虚無の表情の落差! それがせつない。

 これは悲痛な喜劇である。

 

 と言ってみたりして。