丸谷秀人のブログ

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にっぽんのいちばん長いものにはナチュラルに巻かれたいよね

 さりげなく消えていくひとたちというのがいる。

 みんなと一緒に声をあげ正義や論理に興奮していたはずなのに、旗色が悪くなると、すっと消えるひとたちである。

 卑怯者なのだろうか? わたしはそうでないと考えている。

 卑怯者というのは言い訳をする。うそぶく。心のどこかに罪悪感を自覚している。

 あの裏切り者で名高いヨセフ・フーシェですら、『わたしの党派は常に多数派である』という言葉を残してしまっている。そして自分が処刑に荷担したルイ16世の残像を消すためにルイ王朝の復活に手を貸し、自らの破滅をまねいてしまったのだ。

 でも、このすっと消える人達は、なんのセリフも発しない。

 なぜなら彼らは、ごくごく自然に立ち去り、なにごともなかったような顔をして次の列に並んでいるからである。

 最近TVでも放映した『日本のいちばん長い日』という映画は、そういう人達が主人公の映画であるとわたしは思っている。ちなみにこの映画は2本あって、1967年に公開された岡本喜八監督版と2015年に公開された原田眞人監督版があり、わたしが主に語ろうとしているのは2015年版である。

 

 さて、さりげなく消える人びとをどのように映画に現すか。なんせ彼らは静かに消えるのでなんの主張もせずことさらな演技もしない。画面に残って演じ続けるのは消えられなかった人達だけである。

 ではこの映画でどのようにそれが現されたかといえば、ほんとうに消えることで現されているのである。

 それは陸軍省の階段1階である。最初の方では、徹底抗戦を叫ぶ若手将校達が立錐の余地もないくらいに並んでいるシーンが出てくるが、中盤を過ぎ、敗戦を受け入れざるを得ない足音が誰の耳にも響いてくるころには、1人の男しかいないシーンが映る。

 しかもそこに敵国の流行歌が流れるのだ。昨日まで唾棄すべきもの、空気中に振動が流れるのさえ許されていなかったものが堂々と。だめ押しである。

 あるいは、参謀本部である。

 最初の方のシーンでは、志を同じくしている若手参謀達がさかんに議論をし、また笑いあいさえして、同じ志をもつ仲間内の気易さ心地よさ一体感を示しているのに、これもまた終盤には数人しか映っていないシーンが出てくる。

 そしてまた陸軍の地下壕らしき場所。

 ここも中盤には人で埋め尽くされ、徹底抗戦を怒号する将校で充ち満ちているが、終盤には将校が1人飲んだくれている光景が映るばかりである。

 また別のシーンを使った対比ではなく、かなり露骨にそれが語られているシーンもある。陸軍の施設の裏手にあると推測される場所で、機密書類を焼いているシーンだ。そこには複数の人影が映っているが、セリフをしゃべるのはひとりだけである。セリフをしゃべっている以上、この登場人物はセリフを発せず消える人びととは別人種である。そして周囲は、彼のセリフを路傍の石のごとく黙殺し、作業を続けるか立ち去るのである。 

 彼らは見事なまでにセリフをしゃべらない。静かに消えていく。ただ消えていくことで、その圧倒的な不在をもって、彼らこそが主役であると告げるのである。

 ではセリフを喋る人びとはなんなのか。取り残される彼らは一見ドラマを動かす主役達にみえる。だが、彼らは単に逃げられなかった人達なのである。彼らは責任やかくあれという思考に縛られ、あるいは観念に自己を一体化することで理想に近づこうとしすぎたゆえ華麗に逃走することができない。また消え去るひとびとのように罪悪感なく立ち去ることなど出来ようはずがない。

 彼らは愛するべき不器用すぎる人びとにみえてくる。

 わたしは映画を観ていて、彼らがいとしくいとしくてならなかった。

 彼らは閃光のように画面を駆け抜けて散っていくのだ。

 畑中少佐を演じる松坂桃季が始めて登場した時にみせるういういしい笑顔と、自決する時の虚無の表情の落差! それがせつない。

 これは悲痛な喜劇である。

 

 と言ってみたりして。