知ったこと失ったことその他のこと
さて、右耳が詰まってしまった事態に対応するべく耳鼻科へ行ったのが問題は解決せず薬を手に入れたところまでが前回。
唐突だが、わたしは説明書を読むのが大好きだ。軽度の活字中毒なのでチラシまでなめるように読む。ゲームをする前についている解説を読むのは当然であるし、電気製品でも同様である、文房具等の注意書きも読まずにはいられない。そんな人間なので薬の説明書もなめるように読む。
『耳浴』という単語を始めて知った。
薬を耳へと染みこませるために必要な手順で、耳の中へ指定された量の液体をたらし込んだのち、そのままの姿勢で10分ばかりじっとしていることなのだ。
なおこの時、注意するべき子とは2つ、①容器を耳に触れさせてはならない。②耳の後ろのへりを引っ張り、耳の穴をなるべく垂直にする。
手に入れた薬で5日間に渡って日に2回5滴ずつ右耳へ垂らせというのが熊がわたしに課したミッションであった。まぁ簡単でお茶の子さいさいである。だって、耳の穴の中へ薬を垂らして10分ばかりごろごろしてるだけだ。
と思ったのだが、いつもと同様わたしの考えは甘かった。スイートな人間なのだ。いくら経験を重ねても成長しないバカなのだ。
右耳の中へ液体を垂らす、というのが結構な難事だった。右耳へ上にして横たわり右手でスポイト状の容器をもっている姿勢を想像して欲しい。スポイトの先端がどこにあるかを見ることは出来ない。どうやって先端を右耳の穴へと誘導するべきか?
やってみて判ったのだが耳の穴というのは結構小さい。ただ漠然と右耳のあたりへスポイトの先端をかざして垂らすと、液体は穴へと入らず外側のうねうねした部分へ降り注ぐ確率が高い。強引に左手を回してスポイトの先端に指を添え穴へと誘導してやることも考えたが、おそらくスポイトの先端が肌に触れるのは衛生上の観点だかでダメなのだろう。となるとそれも難しい。
ええいままよ。
耳の穴のあたりへ何発か落とせば、きっと半分くらいは落ちるだろう!
何回か無駄な落下を費やしたのち、わたしはコンビニで貰って使わずにとっておいたストローを取り出し、その先端を5㎝ばかりカット、切り落とした部分にスポイトの先端をはめ、耳の穴にストローを突っ込むという方法を採用した。
耳の穴にらくらくと液体が入っていく感触を味わった瞬間。わたしの中に感動が広がっていった。
見たかこれぞ工夫。これなら耳の穴へ直接触れずして液体を投下出来る。人類の叡智である。ストローは使ったら捨てればいいので衛生的にもばっちりである。まさに必要は発明の母。プラスチックと大量生産と薬学の合体が誰の力も借りず耳の穴に液をたらし込むという偉業へと導いたのだ。うははははは。
と書いていて気付いたのだが、鏡使えばよかっただけじゃね?
うんそうだね。
ばかだねこのひと。
うん。ばかだね。
あはははは。
まぁそんなこんなで、液体をたらしつづけて5日間2回ずつ系10回の完璧な耳浴を重ねて予約日当日がやってきた! 熊が事前に告げてくれた通り、右耳の穴の中で何かがぶっくりと膨れあがり右からの音は聞こえない。海鳴りか心臓の鼓動か、寄せては返すなにかの音が響き続けるのみ。
わたしは待合室で、しばしのあいだ目をつぶり左耳を塞ぎ最後の沈黙の世界を楽しんだ。塞ぐ前に響いていた子どもの悲鳴も聞こえない。なんだかなごり惜しい静寂である。ああ静寂よ。深海底にも等しいなつかしき静寂よ。
不意に、耳を塞いでいた左手をつかまれ、耳をつんざく子どもの悲鳴。
なにごとかと顔をあげると、受付の女の人が汚物でも見るような目でわたしを見下ろしていた。いや単に不機嫌だったのかも知れない。そりゃそうだろう。目をつぶり耳を塞ぎ静寂で遊んでいては呼び出しの声も聞こえないからなぁ。
彼女はわたしの名前を呼び、順番です、と告げた。
熊は人喰い熊めいたどう猛な笑顔を浮かべ大きな毛むくじゃらの手でわたしの頭をぐいっと掴むと左へ向かせ右耳を覗き込んだ。ほほう、ちゃんと溶けているようじゃないですか! 結構さぼるひと多いんですよね、固いまんまだと今度はドリルでも使わないといけなくなっちゃいますよ! ドリルだとたまーに鼓膜とか突き破って、もっと運が悪いと頭蓋骨までやっちゃったりするんですよね! はっはっはっは。
あいかわらず怖い。
冗談なんだろう、うん、冗談だろう。だって熊はわざわざそんなことをせず、あの恐ろしい口で人間を食べるものだから。熊じゃないけど。
先日も使われた装置が右耳へ突っ込まれ、じゅぼぼぼぼぼぼぼずじゅるるるるる、と何か濡れたどろどろしたものが吸い込まれてゆく音が響き渡る。お、すごいすごいこんなに吸い出してもまだ鼓膜が見えない! これだけためこむとはすごいよ! お、おおおおお! 耳垢の量に感嘆されてもうれしくない。
いきなり、じゅぼじゅじゅぼぼぼこっ、という轟音がしたと思うと、なにもかもがクリアになった。こまくみえたよー。おわりだね。
あっけな。
うーんごめんね。すごい量だったけど、全部どろどろに溶けてたからこの前みたいに見せて上げられないんだ。いや、別に見たくないです、とも言えず、はぁ、と口の中でつぶやいたが、言われてみればチョット見てみたかったかもしれない。先日見た小指の先程の物体より更に大きな耳垢なんて見る機会はこの先なかろうから。まぁ、あくまでチョットだけで、どうして見せてくれないんですか! と泣いてすがるほどのことじゃないけど。
熊の説明によると、わたしの耳垢は日本人としては少数派の湿った耳垢で、たまりやすいのだそうだ。耳かきや綿棒で耳掃除をしても取れる量より耳の穴の壁押しつけられくっついてしまうほうが多いそうで、ちゃんと取ろうとするならこうして耳鼻科に通う以外方法はないらしい。熊とのつきあいはこれからも続いてしまうようだ。
外へ出ると、洪水だった。
音の洪水。
車の音、人の声、息づかい、世界は音の洪水だった。
わたしは立ち止まって両耳を塞いでみたが、あの静寂はどこにもなかった。