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丸谷秀人のブログ

エロゲシナリオライター丸谷秀人の棲息地。お仕事募集中

参加作品

※この記事は一番上になるようになってるはず……。

 

 知り合いにこのブログを見せたら

「自分がシナリオ書いた作品の一覧くらい書いておけば?」と言われた。

 もっともである。

 今まで書いてきた貧弱な記事を見ている限り、猫の額ほどの庭をたまにいじる暇人としか見えないだろう。

 というわけで、今までシナリオライターとして関わせてもらった作品名を発売もしくは提供された順番に列挙してみる(リメーク作品は数えず)。

 

      「スーパーエレクト大戦SEX」

1996  「SEX2」

      「PILCASEX」「核融合少女リップルちゃん」

1997  「女郎蜘蛛」

1998  「MAID in HEAVEN」

1999  「SEEK2」

      「ドライブ ミー クレイジー」

2001  「奥さまは巫女」(ぷりずむぼっくす収録)

2003  「SEX FRIEND」

2005  「ゆのはな

2006  「遥かに仰ぎ、麗しの

2008  「ティンクルくるせいだーす

2009  「仏蘭西少女」

      「しろくまベルスターズ」

2011  「太陽のプロミア

      「神聖にして侵すべからず

2012  「太陽のプロミア Flowering Days」

2013  「ひめごとユニオン」

2016  「ハナヒメ アブソリュート

 

以上。

 そんなわけでお仕事募集中です。

 

 

 

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くさくないよ。

 なんでウンコは臭いのだろう。

 いきなりバカだと思うでしょうが、不思議なものは不思議なのでしょうがない。

 進化論によればその環境に生き残り易いように動物は変わっていく。変わった動物は変わらなかった動物より多くの子孫を残す。そして子孫が生き残る率の僅かな差がつもりつもってその動物が数を増やし変わらなかった奴らを圧倒していく。すなわちこれが進化である。ある種類の鳥がいるとして、ちょっとした突然変異により周りより僅かに目が良くなれば、周りの奴らよりエサを見つけるのも天敵を見つけるのも早くなり生き残る確率が高まり、子孫を作る可能性も高まり、少しでも多く子孫を作れば、子孫が残る確率も高まるのだ。

 進化したほうが進化していないより優れているわけではない。生き残る率が高いだけだ。アフリカでは赤血球の能力が先天的に低い人が多いという。これは能力の低い形状をもつ赤血球を保持していると風土病にかかりにくいからで、運動能力等にはマイナスにしかならない。生き残り易いということが全てなのだ。

 なぜそれが冒頭の疑問につながるかと言えば、動物はみんなウンコの処理に苦労しているからである。ウンコは大抵臭い。どんな動物でも臭い。排泄物一般が臭い。どの動物も身を守るためにウンコを隠したり埋めたり特定の場所でしかしないようにする。そうすることでニオイの痕跡から自分が見つからないように務めているわけだ。

 とするならば、

 少しでもウンコが臭くない個体は、普通にウンコが臭い個体より生き残る確率が高いのではないだろうか? とすればウンコが少し臭くない個体が増え、それが種族全体になった時、その中から更に臭くない個体が優位になり子孫を多く残し……ということを何十万年と続けていたら、ついには無臭のウンコをする個体のみの種族が出現するのではないだろうか?

 だが現にウンコは臭い。うちのベランダに侵入してきた野良猫のウンコは臭かった! ちりとりで始末したらちりとりも臭くなった! 洗いながら頭に浮かぶ、なぜだ? 何万年も時間はあったのだからウンコが臭くない種族が世界を埋め尽くしているはずではないだろうか。これは進化の怠惰ということなのではないか。猫よもっと進化せい!

 いや待て、猫ばかり責めても仕方がない、そもそもこの人間も含めてウンコが臭くない種族というのは存在するのだろうか? ウンコの中にいい香りのするコーヒー豆が混ざっている動物がいるというが、それはたまたまそのコーヒー豆を食べるからにすぎない、別にウンコに芳香を混ぜようとしているわけではないし、そもそもいい香りだろうが悪臭だろうが、周りにニオイを放出していることには変わりない。草食動物は肉食動物よりウンコが臭くないというが、臭いことには変わりない、ストレスがたまらなければ臭くないという話もあったけど無臭になるというわけではないらしい。究極にストレスがなくなれば臭くなるなるのか? そうだとすると悟った行者とか聖人とかのウンコは臭くないのだろうか。臭いウンコをする行者や聖人は悟りを開いていないうそつきなのだろうか。トイレで見分けがつくのか。いや嗅ぎ分けか。

 真の聖人や行者が臭くないとしても、スーパーやホームセンターへ行けば芳香剤や脱臭剤を山ほど売っているから臭い人のほうが圧倒的な多数派なのだろう。もしそうでなければウンコが臭い人は迫害され、大虐殺とかされているだろう。みんな臭いからこの程度で済んでいるのかも知れない。臭くてよかった。

 

 なぜウンコは臭いのか? 臭くならないように進化していないのか?

 臭くても臭くなくても生き残る率が変わらないのだろうか?

 肉食動物は概して臭覚が発達しているから、ほんの少し臭いが薄れた程度では生き残る率に変わりがないのかもしれない。なるほど、思いつきにしてはそれなりに理屈が通っている気がする。が通っているだけにつまらない。

 臭いを消すような進化は起こりにくいのだろうか? まだその偶然が起こっていないだけなのでは?

 だが時間ならウン億年はあった。生物には時間がたっぷりあったのだから、なにやらよく判らない共生細菌だのを腸に繁殖させたりして無臭化する時間はたっぷりあったんじゃあなかろうか。

 実はもう進化の真っ最中なのではないか? 絶賛進化中。

 確かに、今の人間も含めた動物どものウンコは臭い、ついでにオシッコも。だが昔はもっと臭かったかもしれないではないか! 化石に悪臭は残らない、恐竜の骨を掘り出したら骨や地層の隙間にたまった悪臭が噴き出して来た、なんて話しは聞いたことがない。臭いも鳴き声も化石には残らない。

 進化というやつは勤勉である。それでもウンコは臭いままだ。だがそれでも進化しているとすれば、昔の地球は悪臭ですごかったのだ! 恐竜とかもう物凄い臭い! 今の人間がタイムマシンで恐竜の時代へ行ったら、マシンから降りた瞬間、悪臭で死ぬほど臭かったに違いない。化石に残っていたら発掘隊が瞬時に全滅するほど臭かったのだ。

 それから億年の時をかけて、人が瞬時に卒倒しない程度に臭くなくなったのだ!

 とすれば、今から何十億年後。太陽が膨張し地球の表面が焼けただれる寸前。最後に残った究極の生物は……なんのにおいもしない奴らに違いないのだ。

 

 そういえばシンゴジラで、誰もゴジラのにおいの話をしていなかった。

 究極の生物は臭わないからか。なるほど。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

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川の名前なんて知らない

 橋の欄干から川の流れを見る。

 いつもコンクリートの川底が丸見えの浅い川で、側面もコンクリートで固められているので風情もなにもない。両岸にも並木なんてこじゃれたものはなく、薄暗い灰色の建物の壁面がずらっと並んでいるだけだ。遊んでいる子供もいないし、夜に蛍が飛ぶこともない。川底が平で水が淡々と流れているせいかボウフラが湧いている様子もない。水のにおいしかしない。人をひきつける要素が皆無という川だ。実際、長年近くに住んでいるけど、この川の名前をいまだに知らない、というか、知らないことにすら気付いていなかった。

 死体が流れていても誰も気付かないだろう。なんせこんな川をじっくり見ている人間なんていやしないからだ。慢性ネタ不足で途方にくれているライター以外は。まさにわたしのような人間だけが見る可能性があるわけだが、そもそもこの川に死体を流すこと自体が結構難易度高い。放り込んだらすぐ底にぶつかるし、そもそも流れるほどの深さもない。

 

 なんと面白くないやつなんだろう。これが川である意味があるんだろうか。

 なんと面白くないやつなんだろう。こいつライターである意味があるんだろうか。

 

 こうやって昼間からぼぉっと川を眺めていたら、自殺でもしようとしているんじゃないかと誰かが止めてくれたりしないだろうか。ネタになるし。そうしたらわたしは、言葉はいらない金をくれと言ってしまうかもしれない。

 その時、無言のまま札束を渡されて立ち去られるのと、無言のまま川に突き落とされるののどちらがこわいだろう。どちらにしろネタにはなるけれど。

 もちろん自殺なんてする気はない。痛そうだし。この川は浅すぎて身を投げ出したら川底で全身打撲となるだろう。痛そうだ、とか言っている時点で、死ぬ心配はないというものだ。そんなことを意識しているヤツはそもそも身投げなどしない……か、どうかは判らない。痛いだろうな痛いだろうなでも生きていくよりはマシという人もいるかもしれない。

 話しかけてきたのが警官だったらどうか。そもそもどう話しかけてくるんだろう。

「死ぬな!」 いやまさか。いきなりすぎるだろういくらなんでも。

「生きろ!」 いやいやまさか。これまたいきなりすぎるだろういくらなんでも。

「署まで来てもらおうか」 いやいやいやいや。

「どうかしましたか?」 くらいが穏当なところか。おもしろくないけど。

「気持ちはわかります」 いきなりこんなこと言われたらいやだなぁ。

 お前になにが判ると言うんだ。

「わかります。売れないって辛いですよね」

 ちょっと待て、どうして売れないって判るんだよ。

「いかにも売れなそうな顔をしてますから」

 貧相な顔をしているのは認めるが……確かに売れなそうな顔だ。いろいろな意味で。

「背中を押してあげましょうか? いちにのさんっ!」

 って、いきなりなにをする!? うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 

 もちろんそんな面白い警官がその辺にいるわけもなく、ただ川を見つめ続けるしかなかった。誰も話しかけてこないし、こちらから話しかける相手もいない。そのうち川の一部になった気分に一瞬なったが、どこに流れてもいけなかった。高校野球やオリンピックがどんどんと流れて行ったが、わたしは川を眺めているだけだった。このままぼぉっとしていたら欄干の一部になれないかなぁ、などと思ったが、もちろんそんな兆候はなく、やっぱり川を眺めていた。

 

 人間ってひとりだよね。

にっぽんのいちばん長いものにはナチュラルに巻かれたいよね

 さりげなく消えていくひとたちというのがいる。

 みんなと一緒に声をあげ正義や論理に興奮していたはずなのに、旗色が悪くなると、すっと消えるひとたちである。

 卑怯者なのだろうか? わたしはそうでないと考えている。

 卑怯者というのは言い訳をする。うそぶく。心のどこかに罪悪感を自覚している。

 あの裏切り者で名高いヨセフ・フーシェですら、『わたしの党派は常に多数派である』という言葉を残してしまっている。そして自分が処刑に荷担したルイ16世の残像を消すためにルイ王朝の復活に手を貸し、自らの破滅をまねいてしまったのだ。

 でも、このすっと消える人達は、なんのセリフも発しない。

 なぜなら彼らは、ごくごく自然に立ち去り、なにごともなかったような顔をして次の列に並んでいるからである。

 最近TVでも放映した『日本のいちばん長い日』という映画は、そういう人達が主人公の映画であるとわたしは思っている。ちなみにこの映画は2本あって、1967年に公開された岡本喜八監督版と2015年に公開された原田眞人監督版があり、わたしが主に語ろうとしているのは2015年版である。

 

 さて、さりげなく消える人びとをどのように映画に現すか。なんせ彼らは静かに消えるのでなんの主張もせずことさらな演技もしない。画面に残って演じ続けるのは消えられなかった人達だけである。

 ではこの映画でどのようにそれが現されたかといえば、ほんとうに消えることで現されているのである。

 それは陸軍省の階段1階である。最初の方では、徹底抗戦を叫ぶ若手将校達が立錐の余地もないくらいに並んでいるシーンが出てくるが、中盤を過ぎ、敗戦を受け入れざるを得ない足音が誰の耳にも響いてくるころには、1人の男しかいないシーンが映る。

 しかもそこに敵国の流行歌が流れるのだ。昨日まで唾棄すべきもの、空気中に振動が流れるのさえ許されていなかったものが堂々と。だめ押しである。

 あるいは、参謀本部である。

 最初の方のシーンでは、志を同じくしている若手参謀達がさかんに議論をし、また笑いあいさえして、同じ志をもつ仲間内の気易さ心地よさ一体感を示しているのに、これもまた終盤には数人しか映っていないシーンが出てくる。

 そしてまた陸軍の地下壕らしき場所。

 ここも中盤には人で埋め尽くされ、徹底抗戦を怒号する将校で充ち満ちているが、終盤には将校が1人飲んだくれている光景が映るばかりである。

 また別のシーンを使った対比ではなく、かなり露骨にそれが語られているシーンもある。陸軍の施設の裏手にあると推測される場所で、機密書類を焼いているシーンだ。そこには複数の人影が映っているが、セリフをしゃべるのはひとりだけである。セリフをしゃべっている以上、この登場人物はセリフを発せず消える人びととは別人種である。そして周囲は、彼のセリフを路傍の石のごとく黙殺し、作業を続けるか立ち去るのである。 

 彼らは見事なまでにセリフをしゃべらない。静かに消えていく。ただ消えていくことで、その圧倒的な不在をもって、彼らこそが主役であると告げるのである。

 ではセリフを喋る人びとはなんなのか。取り残される彼らは一見ドラマを動かす主役達にみえる。だが、彼らは単に逃げられなかった人達なのである。彼らは責任やかくあれという思考に縛られ、あるいは観念に自己を一体化することで理想に近づこうとしすぎたゆえ華麗に逃走することができない。また消え去るひとびとのように罪悪感なく立ち去ることなど出来ようはずがない。

 彼らは愛するべき不器用すぎる人びとにみえてくる。

 わたしは映画を観ていて、彼らがいとしくいとしくてならなかった。

 彼らは閃光のように画面を駆け抜けて散っていくのだ。

 畑中少佐を演じる松坂桃季が始めて登場した時にみせるういういしい笑顔と、自決する時の虚無の表情の落差! それがせつない。

 これは悲痛な喜劇である。

 

 と言ってみたりして。

 

 

 

 

 

 

わからないくらい生産的で深遠で高邁

 橋を渡ってすぐの角に公園がある。

 映画の帰りに通りかかると、2ヶ月ばかり続いていた改装工事が終わっていた。

 愚鈍なわたしには意図が理解しかねるほどにすばらしい改装ぶりだった。

 入り口の近くにあるのは、わたしごときの知能と感性ではさっぱり判らないオブジェで、一番近い形状のものをあげればキノコ、しかも鮮やか(毒々しいともいう)原色に塗られたやつが3本ばかり並んでいる。

 その奥は、砂がしきつめられた広場になっていて、夏の日差しをさえぎるものはなく、冬は冷たい風のふきさらしという、人間以外のなにかにとっては快適なんだろう空間に改造されている。

 さらに手と右のへりにはベンチが並び、これもまた日差しをさえぎるものも風をさえぎるものもない、昼休みに近所の人や勤め人たちが憩うことも子供が遊ぶことも断固拒否するという強い意思に貫かれた設計思想だ。

 さらに奥に遊具とみせかけて、よくよく説明板をみると、どれもなにやら大人向けの健康器具らしいものが5台ばかり並んでいる(サイズ的に大きすぎて子供の手に負えまい)。休憩などせず励め学校の帰りに友達とだべったりするなボール遊びなどもっての他というお役所心なのだろう。休むなら働けというまったくもってありがたくて涙が出そうな心配りだ。

 

 かしこくもおそれおおいお役所様がここを改造なさったのは、以前のここに多々問題があったからなのだろう。

 以前、公園の中央にそびえていた樹齢100年近くの大きな柳の作る木陰に配置されたベンチは、日中から夕暮れにかけてひとびとを休息という非生産的な行動に誘う。休息ならまだしもいかがわしい本(生産的な仕事にかかわらない本は全ていかがわしいのだろう)を読みふけったり、あろうことか惰眠をむさぼるけしからん人々も出てしまうかもしれない、そのような非生産的な行動の数々をやめさせるために柳は切り倒され、ベンチは撤去されたのであろう。

 毎年春には見事な花を咲かせていた十数本の桜は、夏はその木陰で日差しをやさしくさえぎり、人々を非生産的な行動に誘い、冬は風をさえぎり人々の精神の鍛錬を邪魔し、秋にはさびしげな風情で人々に詩情という金にならない無駄な感情をいだかせ、春には多くの花見の人々を呼び込み、これまた飲酒、放吟、泥酔などなどの非生産的な行動を誘発するけしからんものであったので、一本残らず切り倒されたのだろう。これで毎年春の恒例行事もめでたく消滅ということだろう。

 さらに木々が作る木陰は、夜、人目から隠されているのをいいことにラブホテル代わりにここを使用する人々を招き寄せてもいた。やるなら近所のラブホテルに金を落とせ、資本主義に貢献しろというお役所のありがたいご意思をびりびりと感じざるをえない。

 そして、公園の入り口にあった武家屋敷の門は、江戸時代からあったとかで、そろそろ文化財に指定されるのではないかと近所に噂されていたが、古きものなど単なる過去の遺物であり日々の進歩の前には消え去るべし、後ろ向きで非生産的なものは抹殺せよという、未来への大いなるビジョンのもと破壊されたのだろう。近所の人によれば、門はパワーショベルで五分もしないうちに引き裂かれたという。もし今年壊しておかなければ文化財に指定せざるを得なくなり、公園を好き放題にいじれなくなるのを嫌った再開発業者とそれに操られるお役所の人間が手を回したという噂もあったが、それはゲスのかんぐりというもの、お役所様は常に人々のことを考え最善を尽くしてくれるはずであり、わたしなど思いも及ばないような深遠なビジョンがあるのであろう。深遠すぎて理解するのはたぶん不可能だろうし、正直知りたくもないけれど。

 

 江戸時代、このあたりは下級武士の家が並ぶ町並みであったという。実際、わたしが物心ついたときには、現在公園のある場所は、崩れかけた土塀に囲まれ、先ほどのべた門が開いたまま建ち、中には築山だったらしい小高く盛り上がった場所と、そこにそびえる柳の木、屋根から雑草をはやした蔵が2個建っていた。子供らは幽霊がでるという独創性とは程遠いそんじょそこらにありそうな怪談を話していたものだ。敷地の隅にあった防空壕の入り口だったらしい扉も、中には白骨が今でもあると噂され、ちいさなハートを震え上がらせていたものだった。

 

 ついにその全てが消された。

 

 わたしがこの公園と称する場所でいこうことは2度とないだろう

 お役所の高邁すぎて図りがたい意図に支配されたこの公園には、お世辞にも生産的とはいいがたいわたしの居場所はないだろうから。

 

 

 

ポケポケしている人を捜して

 ひさしぶりに外へ出る。

 小さな橋を渡り一番近いコンビニへ向かう。

 ちょっとだけ楽しみにしてることがあったのだ。

 あちこちでポケモンをゲットしている人達が、ポケポケしている光景が見られると。

 テレビやネットでは、いたるところで人が固まってポケポケしているのだから、きっとうちの近所でも固まってポケポケしているはずなのだ。1度は見ておかねば。

 

 コンビニについてしまったがポケポケしている人は見かけない。

 仕方がないので、もうひとつ先のコンビニへ向かう。どうせ急ぐ用でもないのだし、終わったら帰るだけなのでいくらでも徘徊してられるのだ。不審者として警官に見咎められない限りは。

 

 これには根拠がないわけではない。はるか昔この国でワールドカップというものがあって、町の住人より多くの警官が立っていた時に、ナップザックを開けろと迫られたことがあったのだ。おそらく外から見てナップザックが不自然な形に膨らんでいたからであろう。私が怪しいからでは断じてない、と思いたい。

 別に強制力はないそうなので逆らってもよいらしいのだけど、そうしたら殴られるかもしれないしイチャモンをつけられるかもしれないし隠しカメラかなんかで記録されて不穏分子扱いされブラックリストに載せられるかもしれないから小心で反骨心がない私は逆らわなかった。実のところ少々逆らいたかったのだが仕方がない。

 中には財布とカバーがかかっていない文庫本とカバーがかかった文庫本とアキハバラで買ってきたフィギュアが入っていた。うん、やましいところはない全て合法である。警官はにこにこほほえみを浮かべながらカバーを外して、と言ってきた。私は仕方なくカバーを外してみせた。黒い本だったつまりエロ小説だった確か未亡人をあれこれしてあんあんさせて縛って釣って剃って全財産を奪って裸で夜の商店街を走らせたりする類のやつである。表紙もいかにもそれっぽかった。その時のなんとも言えない空気は決して忘れないであろう。忘れたいけどな! フィギアの方はごくごく健全でスカートが短くて下から覗くとパンツが見える系だったからセーフだろう(なにが?)

 

 幸いにして警官の姿はなく、ほてほてと歩いているうちに次のコンビニにもついてしまった。ポケモンをポケポケしている人は見あたらない。まぁアレだ。私が住んでいるような町だからきっとイケてない時代から取り残された町なのだ。だからポケモンが少ししか生息していないのだろう、多分。

 そういうわけで次のコンビニへ向かった、駅前だからもっと賑やかであちこちでポケポケしている人がいるはずだ、と思ったのだけど、やっぱりポケポケしている人達には出逢わない。このさい人達でなくても人でもいいんだけど、それでもいない。仕方がないというわけで次のコンビニへと向かう。

 歩きスマホをしている人にはなんども出逢ったのだけど、みな黙々と歩きスマホしているだけで、ポケモンをポケポケしているかは判らない。すれ違いざまに人のスマホを覗くような器用さを私に期待しても無駄である。そんなことを試みたら前から歩いて来た人とぶつかるのがオチである。そして因縁をつけられて、骨折したと言われて多額な賠償金を請求されローンとかいう横文字の仮面をかぶった高利貸しで限界まで引き出すように迫られたあげくに、身ぐるみ剥がされて内臓を抜かれてしまうのだ。知らないうちに生命保険に入らされているのは常識である。

 

 次のコンビニについたが、出逢わない。

 この国のいたるところでポケポケしているはずなのに、私が住んでいる町は取り残されて夕暮れの中でひとり寂しくたたずんでいるのか、それとも、私は別の国に住んでいるのだろうか。

 

 ああ、いったいポケモンはどこにいるのか。

 

 そうしたらなんと、目の前の信号待ちの人がスマホを熱心に見ているではないか! あの真剣なまなざし、まちがいない。しかも後ろから覗ける位置! ついに私もポケポケしている人を見つけられたぜゲットだぜ! 興奮を懸命に押し隠しながらその人のスマホを覗き込んだ。

 

 彼女は畑からキャベツを収穫すると、うふふ、と笑った。

 

 違うゲームだった。

 

 気落ちした私の耳元で声がした。

 

「なにをしているんですか?」

 

 振り向くと警官が立っていた。にこにことほほえんでいた。 

 背後から女性のスマホ画面をガンミしている不審な男! すなわち私!

 うろたえた私は、咄嗟にポケモンをゲットしているのかと思って思わず……。と正直に答えてしまった。

 

 警官は苦笑いを浮かべて、誤解をまねくようなことは謹んでくださいね、と言って、あっさりと立ち去って行った。

 

 呆然と立ち尽くして取り残された私は不意に気付いた。

 そうか、私のような胡乱な行動をしている人間はごろごろいるのだ。そうでなかったらこんなにさっさと解放してくれるわけがない。

 

 つまり

 

 この町のあちこちにポケモンをポケポケしている人を捜している暇人がいるんだ! 私はひとりぼっちではなかったのだ。

 

 ポケモンは見あたらなかったが、なんだか楽しい気分で家へ戻った私は、用事を忘れていたことに気付いて、もう一度外出するはめになったのだった。

 

 

 

 

私とポポーとコケと雑草

 雑草という植物はない、と昔のえらいひとは言ったらしい。

 でも、残念ながら、園芸(というほどでもないが)していると雑草はやっぱり雑草である。ポポーの植えてある鉢にすきあらば生えてくるクローバーなんて雑草としか言えない。せっかくやった肥料や水を横からかすめとる奴らである。数日目を離すとすぐはびこる。しかも根をはりめぐらせているので、ちゃんと根ごと抜かないと駆除出来ない。しかもこの根が結構長く、しかも簡単に切れる。とってもやっかいである。毎日毎日ぷちぷちと抜いていると、きっとこんなに抜いていたらいつのまにか四つ葉も抜いているなぁ、こうやって日々自分は幸福のタネも抜いているのにちがいない……なんていやな考えにとらわれて更にやっかいである。いやいや四つ葉のクローバーにそんな魔力があるなら、クローバー捜してるこどもらはとっくに幸せになっているだろう、あ、そうか、そんなもの捜している時間があるんだからすでに幸福じゃねぇかうらやましい。じゃあビルの下の空き地とかいかにもクローバーが生えてそうな場所を草刈りしている奴らはどうだ、いつのまにやら幸福を失っているはずじゃないか、いやいや、あんな高いビル建ててるくらいだから少なくとも金銭面は幸福に違いない、幸福は金で買えないというがそういうことをほざく奴らは大抵、すでにある程度のお金をもっているというのが相場なので迂闊に信じてはいけない。もういっそ国中に遺伝子組み替えして四つ葉のクローバーしか生えなくしたタネをまきちらしてそこら中四つ葉だらけにしたら、国全体がしあわせになるんじゃないだろうか、なんてことが効果があることが立証されてるならすでにやってるよなぁ。いやいやみんなが幸せだと困る人間がいるから実行されないのだろう。搾取しないと儲からないからな! などなど余計なことを考える。

 3ヶ月あまり毎日毎日抜いていたら流石に出現する勢いも減り、今では数日に一個抜く程度になった。ふふふ、お前らの力はそんなもんか! 雑草なら雑草らしくはびこってみろやい! と無茶ぶりをする私だったが、この傲慢はいつか自分にはねかえってくるに違いない。というかすでに私は一般的に言って人間としても雑魚だったり雑草だったりする側だし。抜かれて捨てられる側だし。もうすでにはねかえっているじゃないですか。毎日自分が抜いてるのは自分なのだ! なんという精神的拷問。

 さて、毎日毎日抜くというアナログな方法より何か効率的な対策があるはずとネットで調べてみると、不織布を鉢の表面にかぶせるという方法があったんですな。鉢の表面を影で覆えば植物が生えてこないという言われてみればコロンブスの卵。取り外しも簡単で、鉢のサイズに合わせた大きさに切り取られた円形の不織布には、縁から真ん中へとひと筋の切れ込みが入っており、そこに根元をぐっと差し込んでやればいいとまぁ至れり尽くせりの工夫。だが残念。うちのポポーには無理なのですよ。なぜならこのポポーというおいしい実のなる(予定)の植物、樹齢が5年くらいは経たないと枝も幹もかなり細い。そこで三鉢とも3本ずつの棒で支えてやっている。切れ込みの入れようがないのです。太くなったらいつか太くなったら不織布で影をつくって雑草を殲滅してやるのだ! 待ってろよ。

 だがである。別に鉢を覆うなら不織布でなくてもいいじゃないか、ということで、3鉢の内ひとつには別の方法が試してある。偶然コケが生えてきたのを毎日毎日霧吹きで湿り気を与えてやって育てた結果、今や鉢一面がコケで覆われ、雑草は2週間にひとつくらいしか生えてこないようになった。万歳。こうしてコケ類が雑草に勝つという進化の階段と逆のことを起こしてやったのだ。しかも毎日毎日霧吹きで養生してやっていると、なんだかコケにも愛情が湧いてくる。よく見ると普通の植物とちがっていてなかなか面白い姿をしている。地を這う葉っぱらしきものの表面に呼吸孔らしきラッパ状の器官が突き出していたり、花の代わりに傘状の胞子を飛ばすものが林立していたり……最近ではコケを育てているのかポポーを育てているのか段々わからなくなってくる始末である。なんせポポー、実が出来ていれば今頃徐々に実が膨らんで来て日々楽しみを提供してくれるのだが、実がひとつもつかなかった以上、今や単なる愛想がない植物にすぎなかったりする。ホントにこれといった特徴がない奴らなんである。まぁかわいいけど。

 もしポポーが太くなって、棒の支えがいらなくなって鉢を不織布で覆う日が来ても、コケが枯れるとかわいそうなんで、コケが生えてる鉢には不織布はかぶせないつもりである。

 いや待て。コケだってポポーの水や肥料を横からかすめとっているじゃないか、なんで雑草は抜かれてコケはかわいがられるのだろう? これは不公平なのではないだろうか。不正なのではないか不正義なのではないか。

 

 卒然と私は理解した。

 確かに雑草という草はない。愛されていない草があるだけだったのだ。